「若さ」とは単なる状態に過ぎない

「若い感性」
というものに出会うことはままあります。
それは、歳を重ねるほどに。

ただ、その「若い感性」に関して
「真新しい感性」と思ったことは一度もないです。
「若い感性」と出会って感じるのは
「かつて自分も通って来た道だよな」という感慨。

若い人が新鮮、かつ純粋に感動するもの、
そしてそれに対するリアクション、
彼らにとっては、紛れもなく斬新なものなのです。
そして年寄りもまた、
若い人と同じような年代の頃に
そうしたものに対して
未だかつて出会ったことのない体験だと
心を震わせていたのです。

要は結局のところ、
全てが「経験」であり、
「学び」なのです。
「経験」や「学び」のあるところには、
年齢、世代に関係なく
常に「未知との遭遇」もあるのです。

世の中には
「若く、経験値の少ない人達を煽って喰い物にするビジネス」が
横行しているがゆえに、
暗に「若い世代の感覚」が礼賛されているだけで、
本当は、年代相応の「自然な感性」というものが
存在するように思うのです。

若い人が
「これは若者の特権なんだ!」と
いくら世界に向かって叫ぼうが、
結局そこは「大人」の掌の上で
「保護されながら、好きにものを言わせてもらっている世界」
だったことに、
まともな人ならいつかは気付くし、
そこに気づかずに歳をとった大人が、
若い人と同じ土俵(世界)に居座って
若い頃と同じことを叫んでいても、
それは滑稽を通り越して
稚拙以外の何物にもならないのです。

まあ、僕なんかも
社会的な立場などを冷静かつ客観的に評価すれば、
上述の後者、稚拙なオッサンに類する人種であるのだろうけれど、
それに対する言説は、ひとまず
またの機会にするとして・・・。

まあ、要するに何が言いたいのかといえば、
人はその肉体的、あるいは精神的、
そして社会的あるいは個人的な
経験値に応じた、
インプット(ものの見方)と
アウトプット(表現の仕方)とが
それぞれにあって、
それらは成長とともに変化していくのが
自然なことなのではないかということ。

そう考えると、少なくとも日本に限ってみても
実年齢相応の質を持った
インプット、アウトプットを有している人の
いかに少ないことか、と言えるのですが、
それに対する批判は割と瑣末なことであり、
これらのことはもっと深いレベルで
「いかに綺麗に老いるか」
という、おそらく若者には全くピンとこないけれど、
ある一定の年齢を超えると間違いなく、
程度の大小こそあれ
必ず突きつけられる問いを孕んでいるのです。

「いかに老いるか」を考えることは、
それすなわち
「いかに、自分の現状を知り、肯定するか」
ということと、ほぼ同義です。

ゆえに、「若い感性」というものは、
その実、所詮は一過性の感覚であり、
一時的な現状での「状態」のことであり、
また、
「一過性の感性であらねばならず、
それは心の成長の通過儀礼として経験しなければならない」
ところの感性なのです。
それらは常に変化して、成長し、
積み重なった経験を礎にして
子供から若者になり、青年、大人となり、初老へと
積み上げていけるのが、
「心にとっては」意義のある
人生の理想型の一つであるのではないかと思うのです。

人生を生まれてから死ぬまでの
トータルで俯瞰した時、
生き方に「何が正しい」とかいう
「評価」にはあまり意味はありません。

人生をトータルで省みた時、
成功や失敗、あるいは過ち、
幸福も、絶望も、
そうしたライフイベントにまつわる事柄を経験して、
あの時は「どう考えたのか」とか
その時「自分はどういう人であったのか」とか
この時期には「何を信念として拠り所にしていたのか」とか、
そして、自らの人生の最期に、
自分はどこまで精神的に豊かになれたのか、
そこが見えない人生というのは、
やはり「薄い人生」と感じてしまう気がします。

年相応のものを考えられ、
年相応のものが言える、
このごく自然なことを歪め、滞らせてしまうなら、
それは、その人が
「何も学ばなくなった証拠」なのだと思います。

そこに、実年齢としての
若いも年寄りも関係はありません。
ただ、
「自分が誰であるか」を
知っているか、知らないでいるか、
その差しかないのです。

身につけて、身につけすぎて、
重くなって手放して、
身を軽くして、浮かび上がって、
また浮かんだ先で身につけて、身につけすぎて・・・、
人生経験というものは
おそらく、死ぬまで
この営みの繰り返しなのだろうと思います。