救われる歌

僕の無駄に長い音楽経験から思うに、
世の中には
「人を癒す力のある歌」というものは
実際に存在するのだろうな
という事を認識しています。

それはどういうものかというと、
人の心のすぐれない、言うなれば影のような
もやもやと弱った部分を浄化して、
さはにそこに「善い意味での生きる力」を注入してくれる、
そんな歌の事。

もちろん、それらは
絶対的かつ歴然と「この曲です」と存在しているわけではなく、
個々人の心、精神性によって様々に存在するものなのでしょう。

そう。
人それぞれの「個人的な経験」として、
それらは人生の救いになってくれるのです。

ただ、こうした「救われる歌」というのは
前述のように、あくまで
個人の体験として現れるものであるのだから、
本当の意味で癒しをもたらす歌というものは、
必ずしも、柔らかく、優しく、
そしてポジティブなものとは限らないどころか、
おそらく、その真逆の性質を持つものでさえ
意外にもそうしたデトックスの、機能を
有していたりするのです。

何故か。

人というものは、
往々にして弱っている時の自己評価は
低いものだったりします。

そういう時に、
過度に前向きなものを見せられたところで、
弱っている人の心の中に届く事は、大抵はないし、
仮に心に触れたとしても、
ただ不快にしか感じないのではないかと思うのです。

歌を提供する人と、
それを受け取る人という関係性の中には、
「意識の高低差」というものがあって、
例えば、受け手の「低いもの」を
その心の中から取り除こうとするのなら、
送り手が受け手より「高いところ」にいても、
受け手の中にある「低いもの」は
そこから動かないのです。

つまり、受け手の心に届かない。

歌の送り手は、受け手に相対して
「より低いもの」を体現してやる方が
デトックスの効果は高いのだと思います。

闇の中の暗さに動けない人に必要なのは
灯りではないと思うのです。
人の作り出した灯りに依存する心であってはいけないと。
本来は、自分で自分を照らすあかりを
自らの力で灯して、
自分の世界を自分の足で歩んでいくのが
一番いい筈ではないか、と。

幸せなんてものは、
ひとりでその心一杯に喜びを満たして
ニマニマしているだけで良いのです。
そこで完結してしまって良いのです。

ただ、心が苦しい時、痛む時、張り裂けそうな時、
そんな時、その自分の心の状態と同じか、
それ以下の苦しみを表現した歌を知っているなら、
その歌の事を思い出して欲しいのです。

その歌が自分よりも低い場所を支えて、
悲しみや苦しみを替わりに幾らかでも
受け止めてくれるから。

そういう強さのある歌は、
まさに「人を癒す力のある歌」だと言える気がします。

けれどそれは、
誰にも作ることのできるものではないし、
作ろうとしてもできないし、
仮に出来ても、それを表現できる器がないと
機能しない、実に難しい事でもあるのです。


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