愛さないということ

昔、エーリッヒ・フロムという哲学者(心理学者etc)が
その著書の中で、以下のような意味のことを説きました。

『愛することは技術を要することである』

現代の世界、
何かと殺伐とした事件が起きたり、
稚拙な騒動が起きたり、
その一方で、人が孤独に陥ったり、
あるいは、それを避けるように
逆に、人との関係性というものに依存してしまったり。

そうした、人、あるいは人同士の問題に
起因しておこるストレスフルな出来事というものは、
大抵、十中八九、
そうした人たちの
『愛する技術の不足』によって引き起こされていると言っても
過言ではないような気がします。

自分のことを棚にあげる気はありませんので、
自分を引き合いに出せば、
やはり僕自身が「ぼっちキャラ」である要因は
ひとえにそもそも
僕の「愛する技術の不足」の結果なのだろうと思えます。

こう書くと、愛というものは
ものすごく回りくどく、また面倒臭いもののように
感じるかもしれません。
愛というものは
自分の内奥から発露、発顕する
「主観的かつ主体的な愛おしいと感じられる感情」
であるはずなのに、と。

確かにそれは間違っていませんが、
それは「愛の本体」ではないと感じます。

海の波が、それ自体が波を打っているわけではなく、
「愛おしいと感じる」それは、喩えるところの「波」であり、
愛自体の本質的な作用の結果である
「風」に相対するところの
「副次的な作用」のそれであり、
いわばそれは「愛の姿の影絵」なのです。

つまり、そもそも、
『実のところ、愛するということは至極面倒臭いもの』
なのです。

何十年も前、まだ社会自体が
生活をするのに不便だった時代というのは、
人同士が互いに助け合って、信用し合って
生活していかなくてはなりませんでした。
時には衝突することもあるし、
非があれば頭を下げて謝って許しを請わなくては
収まりがつかなくなることもあって、
それらを「個人対個人」の問題として
解決し、昇華していく連続の中で
「許すこと」を覚え、
そうして少しずつ、人格が成長していく結果として
振り返って俯瞰してみて、
そうした営みとは「愛」だよね。
と、悟ることができるようになっていくものだったのでしょう。

対して現代というのは、
社会のあらゆる面で利便性が格段に上がり、
「一人で用を済ませられる」ことが
当たり前になってきました。
ゆえに、自分の生活の中で
「人と関わることの大切さ」は
さして重要な事柄ではなくなってしまったのです。

簡単に言ってしまえば、
己の人生の中にある「愛する能力」というものは、
他者との折り合いをつけていく中で
そのスキルが磨かれるものであって、
決して一人では伸ばせない技能なのです。
他者と関わり合い、他者との差異を認め、
相手を認めつつ、
さらにそこから、『自分すらも愛さなければならない』

なんとも面倒臭い。

そう、面倒臭いから
人間関係はどんどん希薄になって、
「愛」の使い方も忘れ、
「愛」に対する感受性も鈍くなっていく。 

愛さなくなるということは、
愛が無くなるということであり、
結局、そこで何が枯渇するのかと言えば、
自分の心であり、自分を取り巻く環境であり、
果ては『自分の生きる世界そのもの』でもあるのでしょう。

生きている中で、
何かに行き詰まり、時には辟易し、
愛を不在させることなど特別に稀有なことではありません。
また、その愛の不在の内に閉じこもることも
悪ではないのだろうと思います。

そういう極限の中で
「自分という存在」が
何によって立つものであるのかを自省する行為は
「愛」からも断絶し、文字通り「一人きり」で
行為せねばならないことだし、
おそらく、「自身の存在論」を
より真理に近接したところにまで拡張する方法は
それしかないようにも思えます。

ただ、
閉ざされた窓はいつかは
開け放たれなければならない。

窓を開けては傷つき、
窓を閉ざして一人自問自答し、
もう一度だけ開けてみようか、
そんなことを延々と繰り返すのが人間です。

「だろ?愛することって絶対に必要だろ?」
と問われて心底合点がいくようになるまでは。

こういう過程を通して
人は「愛する」という技術に長けていくのだと思います。

「好き!」というのは「愛」ではありません。
単に、その時、その瞬間に
その対象に魅了されているに過ぎないのです。
もっと言えば、それは「欲」なのです。

「好き!」という感情に、
『慎みや忍耐、信じ、赦し、与え、そしてそれらを全うする責任』
が伴って
ようやくその感情は
愛の門をくぐることができる。

何度も言うように、
『愛することは面倒臭いこと』

面倒臭いことを避けるのであれば
たった一人でいればいい。
それが出来ないのであれば
その「他者のいる、いちいち面倒臭いことの中」に
愛を見出して、
少しでもここが、
より愛に近い世界であると
自分の中で規定してみる努力はしたほうがいい。

そう励む営みこそが
唯一、世界を明るくする方法なのだと思えます。

ゆえに「愛さないということ」とは、
そうした人たるところの
「愛の萌芽のための修練の放棄」を意味することであり、
「愛さない人」が増えるということは
文字通り、世界中から明かりが消えていくことに
通じることでもあると思うのです。

愛することに技術が必要なように、
明るく平和な社会の実現にもまた技術がいるのです。

それらを放棄して
「愛さない」と毒づくことは
論理的にも、感情的にも
ナンセンスなことなのです。


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