大怨恨社会

影に隠れていた「悪」が明るみに出て、
そうした「悪の現場」とは無関係の世界を生きている人たちが
マスメディアの情報や論調に毒されて、
まるで自分が受けた仕打ちのように
怒りの感情を表す様と、
たとえそれを意図的ではなくとも煽動する
メディアの振る舞いには、
いささか不気味な違和感を感じます。

確かに実際に「悪い奴」がいて、
そこで悪事が行われて、
それが暴かれ、相応の正当な報いを受けるのは当然です。

けれど、こうやって
「晒されるべき悪の存在の有無」を
常に監視し、見つけて晒しあげる。
こういう世の中は、
果たして「平和な世の中」なのでしょうか。

当事者が訴えて戦うのはわかります。
けれど、全く接点のない部外にとって
そういう事件、事案というものは
「知らなくてもいい出来事」であり、
いつまでも「とやかく言う話でもない」のです。

にも拘らず、メディアは
民衆、個々人の中にある「鬱憤」を焚きつけ、
彼らの心の中に巣食う「かつての敵(と感じた人)」を
燻り出してきます。

この状況には良し悪しがあって、
悪い方へ転がると
世の中全体が『怨恨社会』になって行く
恐ろしさを感じます。

生きていれば、生きた分だけ、
許せない人間に出会うこともあるし、
ともすれば本気で殺意を覚えるような輩とも
関わらなければならないこともある。

善良な人は、そこをぐっとこらえ、
心に受けた傷の中に
そういう人間の存在を閉じ込め生きているものです。
そして当然、自分の傷の中に留め置いていいものでもない。
その膿を傷の中に溜め込むばかりでは
「自分そのもの」が
毒素を受けなくてはならないのだから。

自分の心の傷に出来た膿は排出しなければならない。

ならば、どうデトックスをするのか。

それを人の心に問うているのが
上述した
「メディアが負の感情を焚きつける社会」
なのでしょう。
もちろん、メディアはそれを自覚してはいないでしょうが。

結論を言ってしまえば、
「怨恨」は
たとえそれを為した人間に仕返しをしても、
それこそ、恨みを晴らすために
『たとえ殺したとしても』
決して、自らの心から消えることはないでしょう。
その恨み、憎む相手の肉体を
この世から消し去ったところで、
自分の心や記憶から
それをした人間の仕打ちや、存在そのものが
消えることはないのだから。

その「怨恨についての真理」に気づかず、
あらゆるレベルの感情を
それに明け渡してしまうことが、
『自分自身のとってどれほどの苦痛であることか』
その苦痛はともすれば
自分が受けた恨むべき仕打ちの苦痛をも
超える苦しみにさえなりうるのです。

皆が皆、
心の傷から漏れ出てくる膿に振り回されてしまうと、
世の中は文字通り本当の地獄になる。

誰の心の中にだって、
恨めしい記憶や、
憎むべき経験などというものは、
瑣末なものも含めれば
数え切れないほど抱えているものです。

自らの傷の膿の毒を
綺麗に洗い流すことができるか、
あるいは
その毒の苦しみに
のたうちまわるか。

メディアが振りまく「毒電波」に対峙して、
君は何を選び、どう生きるのか。
選ぶものを間違うと、
やがて「大怨恨社会」がやってくるぞ、という話。

まあ、それもいいのかもしれない。

憎んだ分だけ、恨んだ分だけ、
そっくりそのままの分だけ苦しいのは
自分でしかない。

人を、世界を、目に見えるものすべてを
恨んで、恨んで、憎んで、憎んで、
一切の何もかもを否定し、
焼け野原になった心に
「優しさの種」をひとつでも埋めることができるのなら、
それはそれで、
生きていて良かった理由の一つでも
見いだせるかもしれないから。


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