「積む」怖さ

よく、コレクションしているものを
買うだけ買って、
それこそ、その用途に使用することもなく、
しまい込んだりとかすることを、
「積む」と言います。

おもにフィギュアなどで
使われる言葉なのでしょうか。

僕はフィギュアの類は集めませんが、
昔、うつ病を患っていた時期、
趣味のプラモデルは(最近、これも飽きてきた)
買うだけ買って
作る気力もないので
そのまま部屋に積んだままになっていた
ことがありました(笑)

「欲しい、買う」
という初期衝動に近い部分では
心も身体も働くのですが、
それが、いざ開封して組み立てるという作業は
病んだ心にはハードルが高いのでしょう。

まあ昔から、
「積ん読」という言葉もあるように、
コレクションと「積む」という行為は
過度に行き過ぎた先で
合流するものなのかもしれません。

ただ、こういう「積む」という悪癖と言うべきか、
ともすれば「症状」は、
思うに、心理的にも
非常に危険な状態なのではないかと
思えたりするのです。

そもそも第一に、
「積む」状態というものは
明らかに無駄遣い、浪費であることは
明白であるのだから、
単純にその点においてだけ見ても
まず否定されても仕方がないことでもあるのですが、
さらに深く考えるに、
「積む」という状態に陥ることとは
それすなわち、
自分の中の情報を取り込むスピード、
つまり「内的な消費」が、
買ってきて、開封し(あるいは表紙を開き)、楽しむという
「外的な消費」スピードについてこれない状態のことを
指すのではないかと思われます。

分かりやすくいうなら、
楽しむペース < 買ってくるペース
という状況に陥っていることであり、
つまり「楽しむ」という内的消費は
満たされ、あるいは需要を求めず、
供給過多の状態にあるのに、
不要であるはずの
「楽しむ予定のないもの」まで買ってしまうことで
ものが溜まってしまうのです。

もう、こうなった時点で
「何かを楽しむため」の行為は
そこには存在せず、
ただただ買うことで「あ、欲しい」という
初期衝動を満たすための依存があるのみなのでしょう。
麻薬のようなもの。

つまり「積む」ということは
買い物依存症の病理とさして変わらないのです。

ただ、この状況、問題は
単に個人の心理的衰弱の警鐘という
意味だけにとどまることでは
ないのだとも思えるのです。

今の経済の裏には
この構造が暗躍している気がします。

乗せられて、煽られて
ついうっかり買ってしまったはいいけれど、
果たしてそれは必要なものだったのか。
個人の必要、不必要に関係なく
『何か上手いこと言って買わせようとする』
これが今の商売の基本であるように思えるのです。

『知らないうちに
内的消費の限界を超えて
外的消費を促され、依存させられている』

昔はこういう商売のやり方は
そっちの筋の人がやるものだったのですが、
今は真っ当な大会社でさえ、
というか、資本や組織が大きくなるほどに
こういう手口でものを売ろうとしてきます。

内的消費が滞っても、
外的消費に依存して
物理的なものも、そうでないものも、
『積んでしまっている』人は多いと思います。

コンビニのレジの前の肉まんだとか、
期間限定商品くらいなら
まだ可愛いもので、
ゲームのアイテム課金もそう。
携帯電話(スマホ)の料金プランもそう。
形がなく物理的に「積む」状況に陥らないものは
なおさらそれが見えにくく、質が悪いかもしれません。

形がなく「積まれてもいないもの」に縛られて
自分の許容以上に
買ったり、お金を払ったりしていないでしょうか。

程度の大小こそあれ、
この構図に陥ってしまうのは、
それだけ先進国の現代人は病んでいると言えるし、
もう一方では、
これほど下衆な商売をしないと
大量のお金を集めることはできない
経済の逼塞した社会も見て取れるように思えます。


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