音符ひとつひとつに愛を込める

今、アルバムのレコーディングに向けてこつこつと、
とりあえず今のところは
ボーカルとベースの練習を
毎日やっているわけなのですが、
ここ1ヶ月ほどで
分かった事があるんですよね。
楽器にしろ歌にしろ、
ただ正確なリズム、正確な音程で
音出しするだけでは
フレーズが活きないんですよ。
音符のひとつひとつ
すべてに愛を込めないと
活きてこないんです。
やがて縁あって聴いてくれるであろう
人の事を想って
感謝の気持ちと愛を込める。
これをするのと
しないのとでは、
本当にフレーズが別物になるのです。
これは録音した後に
数字というデータとしては
絶対出てこないです。
でも、
愛を込めるのと
込めないのでは
フレーズの生命力に雲泥の差が出るのです。
データとして違いが出ないのだから
そんな話はナンセンスだ、
そう考える人は
多分、音楽を奏でる適正が無いのでは
ないかとさえ思います。
データとして間違いが無い演奏なら
訓練すれば阿呆にでも出来るし、
それこそパソコン上で
打込みをしたり、
録音した演奏データを修正すればそれで済む話です。
でも、実際に演奏の実像は違うのです。
愛の籠った1トラックを
作る事が出来るのは人間だけなのです。
聴いてくれる人の喜ぶ顔、
聴いてくれる人の心が豊かになっていく様、
それを想像して
感謝を込めた愛あるトラックを
紡ぐ事はコンピュータではできません。
この喩えは
分かる人にしか分からないと思うので
大変恐縮ですが、
その辺のホームセンターとかで
投げ売りされている
1000円もしないクラシックのCDで
誰か知らない人が
楽譜通りに弾く
モーツァルトのピアノソナタと、
グレン・グールドが弾く
譜面の指示などまったく無視した
モーツァルトのそれとの違いなんだと思うのです。
グレン・グールドのピアノプレイは
譜面通りに弾かないけれど
魂が入っている。
そういう事なのです。
この違いはきっと
ほとんどの人が気づかないと思われます。
でも、
少なくとも自分の奏でた音だけは
この違いを分かっていないと
いけなのではないかと、
最近この事に気づいたのです。
ただこれは容易な事ではないです。
まず愛を込めるという行為に
集中するためには、
目を瞑っていても
ミスの無いくらいに
技術的に演奏や歌を
身体に叩き込んでおく必要があるし、
ミスの無いように
演奏面に気がいってしまうと
今度は愛を込めるという行為が
疎かになってしまう。
このバランスが凄く難しいし、
こうした演奏や唄い方をすると
本当にエネルギーを消費します。
音楽の達人は
「そんなことあたりまえでやってるんだよ」
と言うかもしれませんが、
僕にとっては
音楽を奏でるという行為の次元が
もう一段階、奥に広がっていたのを
知るにいたり、
大きな発見でした。
音符のひとつひとつに
愛を込める。
愛を込めるには
愛せなければいけないし、
愛するには
それなりの社会性が必要と
なってくるわけで、
幼い頃から
部屋に籠ってスパルタ式で
演奏の訓練をしていただけでは
育めない感性なんですよね。
結局最後は
「愛」というものに
帰結していくものなんですね。
音は空気の振動という
表面的な物理現象ではないです。
愛を振動させ、まわりのそれらを
共鳴させる性質のものなのです。