苦に対する処方

自分の目に見える世界は
結局のところ
自分の思い込みのフィルタを通してでしか
見る事が出来ないというような
お話を昨日しました。
この世、この人生で遭遇する
あらゆる事は、
その視点の方向性
つまり、
目の前の事実をどう捉え
規定するかによって、
どのような意味合いにも
解釈する事が出来るという事です。
だから極論的に言ってしまえば、
現実は自分の考える通り
いかようにも変えられるわけです。
一見、揺るぎなく変えられないと
思えるような
社会的コミットメントでさえ、
時として人の意志によって
変わるものです。
いわゆる革命というものは
それを証明する好例だと思います。
そう考えれば、
現実というものの本質は
幻のようなものと言えるのかもしれません。
それは外的世界のコミュニティレベルでの
現実も然り、
また個人の内的世界における現実、
つまりそれを心象と言うのでしょう、
それもまた
夢まぼろしのようなもの
なのではないでしょうか。
人生、生きていれば
何かしら不愉快に思う出来事に
出会うものです。
多くの人はその不愉快な出来事に対して、
それを現実に起きた事実として
認知し、いつまでも
それに目を奪われ、
心の不快さを手放そうとしないものです。
しかし、そこで考えて欲しいのです。
不愉快な問題の根本を
人は外的世界の事実の中に
求めようとしますが、
本当はそうではないのです。
不愉快な問題の根本は
ずばり、
不愉快と感じる自分の心なのです。
同じ事実を目の前にして
それを不愉快に感じる人と
別にそうは思わない人がいる、
そんな事象などこそ特に
不愉快の根本は
自分の心にあると言ってもいいでしょう。
その根本は
過去に同じような体験をして
嫌な思いをした経験だったり、
ともすればそれがこじれて
トラウマを形成し、
それが刺激されたのかもしれない。
あるいは、
集団の中の通念として
それは不快なものであると
思い込まされている可能性もあります。
どんなものであれ、
結局は心象こそが根本であり、
遭遇した事実は
幻に等しい物なのです。
自分はその事実に直面した時、
何故それを不快に感じるのか、
その原因をたぐり寄せるように
思い出していけば、
過去に同じような体験をし、
それを「悪」であると
規定した瞬間に辿り着く筈です。
今、自分が不快と感じているように
思えるそれは、
実は過去の傷ついた自分が
不快と思っているに過ぎないという事に
気付くのではないかと思います。
それは過去に残った
未消化の自分。
そんな過去の自分を見つけたら、
ルーツとなったその出来事に於ける
ネガティブな意味以外に
考え得る規定の可能性を
想像してみるのです。
そして視線を「悪」以外の方向に
変えてあげるわけです。
ルーツとなった出来事を
再定義してみたらどうでしょう。
そうすることで
それを「悪」と規定していた事実が
いとも簡単に解体して消えていきます。
悪いと思ってきた事実が
実は自分の思い込みという
実体のない幻だった事に気付くでしょう。
事実ではなく幻と分かったら、
あとはそれをさらっと流して忘れるだけ。
それでもなお、
今後の人生で
そうした「自分が不愉快に思う」出来事に
何度も遭遇する事でしょう。
しかし同じような事実に対する
認識が変わったのなら、
不愉快に思える事実の実体を
把握していたのなら、
その不愉快な事実に対して
客観的に処する事が
出来るのではないでしょうか。
不愉快な出来事に出会って
不快に感じても、
「ああ、また古傷が痛んでいるんだ」
そう思って、
今去来したその不快にさせる事実は
さらっと受け流せば良いだけなのだと思います。
何度、傷ついた自分を思い出しても
すべて古傷の痛みとして
受け流していれば
そのうち傷は
癒えていくものなのではないでしょうか。
下手に事実を実体のあるものとして捉え、
それに心奪われ
古傷に触れてばかりいては
傷もなかなか治らないものです。
きっとその現実は、
不快にさせるその事実は、
自分が傷を負っていなければ
見る事の無かった出来事なのだと思うのです。
傷があるから
その事実は不快に
見えているという意味に於いて、
それは逆説的に
その事実は
自分の傷を映し出している
と考えても
筋の通る話だと思うのです。
不快にさせる物事は様々です。
物の考え方一つで
病気は治らないかもしれない。
しかし考え方を
再定義する事で、
揺るぎようの無い
ネガティブな事実も
ポジティブな心象に
転換する事は可能です。
そうすれば
見える世界も反転する。
最終的に結果論として
心が癒され、満たされれば
現実、事実がどうであれ
そのような物事は
どうでもいい事なのです。
・・・、
・・・だと思う・・・。