自己肯定の罠

自己を肯定する方便として
よく、
「あるがままでいいのです」
などという言葉を
目にしたり耳にしたりする事が
あると思います。
確かに最終的には
自己肯定へと至る道と言えど、
はじめから
「あるがままでいい」
と思うのは間違いだと思うのです。
結論から言ってしまえば、
何も持たないものが
「あるがまま」であって良い
などという事はあってはならないのです。
「あるがままでいいんだよね」
と言える人は、
やるべき事をやりつくして、
苦しんで苦しみ抜いて、
あらゆる葛藤と戦いつつ、
最後の最後に
それでも何故
人は生きるべきなのかと
心の底から問うた人なのでしょう。
あらゆる物事を学んで、
それらを身に付けたから人だからこそ
「あるがまま」でいて良いのであって、
何も学ばない人が
「あるがまま」で良いと言うのなら、
それは悟りではなく
開き直りでしょう。
人生、はじめから
戦わなくていいなんて
思わない方が良い。
戦って戦って、戦い抜いて
その中で
今、目の前にある戦いは
自分から切り離された
不可避な存在ではなく、
ただ自分がその対象を
戦うべきものであると規定し、
自らに戦いを
強いていただけのものであり、
実は実体のない幻であったと気付き、
戦う事の無意味さを
知る事が出来た人間のみが
戦う事を放棄出来るのだと思うのです。
中島みゆきさんの
「ファイト!」という歌の中に、
闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう
冷たい氷の中をふるえながらのぼってゆけ
という歌詞の一節があります。
冬の寒さを、誰もが寒いと言っても良いです。
実際、本当に寒いのだろうから、
素直に凍えるほど震えれば良い。
ただ、冬の景色の美しさを、
その寒空を避けて
暖房の効いた部屋で
コタツに潜り込んで
出てこないような人間に、
語って欲しくないし
語る資格も無いと思います。
冬の寒さを
その身で感じる事の無い人間にとって
冬の寒さはただ
寒いだけ、厳しいだけなのでしょう。
絶対にその厳しさの中に
愛と美を見いだす事は出来ないと
断言しましょう。
故に「あるがままでいい」
などという言葉を
安売りしてはいけないのです。
「あるがままでいい」と
気付けた人は、
絶望の淵の奥深くを
さらに越えて、
気の遠くなるほどの
向こう側へと入り込み、
それでもまだ奥があると
限界すら越えて進み、
そして力尽きて倒れた時に
最後にたった一つ、
自分の中に残ったものを
見つけた人なのです。
そんな勇気ある尊い人の話を
聞いてなぞっただけで
そこに行った気になっては、
それこそ失礼というもの。
それどころか
僕ふぜいの人間が彼らを語る事すら
おこがましい。
僕に語る資格があるかどうかも
本当は怪しい。
実際にそこに行って
自分の目で見て、感じなければ、
本当の意味での
「あるがまま」なんて
分かるわけがないと思うのです。
とは言え、
それは逆説的に
戦う人生も、
それはそれで良いという
反対側の側面からの
自己肯定にも繋がるのですが。
だから人生は厳しい。
厳しいままで良い。
厳しいままで美しい。