貴職、賤職、天職

世の中には
社会的地位の高い人がいます。
政治家然り、
弁護士、医者などなど。
こうした人たちは
もちろん高収入です。
高収入だから社会的ステータスが高いのか、
社会的ステータスが高いから高収入なのか、
どちらが原因で、どちらが結果なのかは
分かりませんが、
どんな社会的なステータスを持っているにせよ、
そのステータスに頼って
ご飯を食べているという状況は
あまり好ましくないように感じます。
どんな立派なステータスも、
それを取り剥がされたら
ご飯が食べていけないというなら、
それはやはり
人として、人の生き方として
薄っぺらいように思うのです。
もう何年も就職難の時代が続いています。
なんとかして会社に入ろうとしても、
なかなか迎え入れてくれる
会社がない、そんな人がたくさんいます。
そんな彼らの少なからずは
ステータスが欲しいのですよね。
そしてそのステータスを得た事で約束される
安定した収入や保証が欲しいのですよね。
でも、どんなに頑張っても得られない。
100社以上も面接を受けた人がいる
なんて話もわりと聞きます。
思うのですが、
そこまでして採用が得られないのであれば、
自分の好きだと思う事で
身を立てる事も考えても良いと思うのです。
日がなせっせと
面接に行って断られる生活も、
自分が本当に
好きと言えるものに没頭して
日々を送るのも、
客観的に端から見れば
結果的に無職なんですよ。
だったら好きなものに打ち込んで
それで身を立てる道を模索する事も、
別に無駄な事ではない。
とは言え、
好きな事を生業にして
生活出来る人は少なくて、
まして
有り余るほどの収入を得られる人なんて、
本当にごく一部です。
だから人は思う。
会社で働いて月給を貰っていれば
生活は安定したものになるし、
大きなものと言わずとも
ちょっとした贅沢だって出来るし、
どこかに遊びにも行きたい。
将来、結婚でもして
さらに子供まで出来れば
なおさら安定した身入りが必要だ。
だったら好きな事は趣味として楽しんで、
会社で割り切って働く生活を
した方が良い、と。
でも結局、
朝から晩まで働いて
気付けば羽を伸ばす時間すらなかった。
でも仕方がない。
妙な疑問からは
なるべく目を逸らして
今日も会社に行かなければ・・・。
今日も店を開けなければ・・・。
そんな生活を送っている人の方が
大多数なんですよね。
好きな事を生業にして、
本当にそれを愛しているのなら、
ご飯が一日食べられなくたって平気だし、
古く狭い家に住んでいても
苦にはならない。
好きな事にそんな覚悟が出来ないのであれば、
それはやはり
奴隷のように働くより
しかたがないのかもしれません。
自らすすんで
好きな事に人生を埋める
覚悟なんて出来ないから、
せめて、とりあえず
日々の生活を安定して送る事を許される
「引換券」のようなステータスが
必要になってくる。
こうした人たちは
自分の労力をお金に出来ても
能力をお金に出来ない。
しようともしないし、
また悲しいかな
それができる社会構造でもない。
世の中には
ステータスこそ人を量る
絶対的基準であると
信じて疑わない人は
もちろんたくさんいます。
仕事やステータスに
貴賤を求める、
つまり貴いか賎しいかで
それらを選り分ける人も
いたりしますが、
しかし
これだけは絶対言えます。
国会の答弁中に居眠りしている
議員の年収1億円より、
それをする事が好きで好きでたまらなくて、
愛と情熱と
そして高いプライドを持って
トイレ掃除をする人の
時給800円の方が
よっぽど美しいお金ですし、
またそちらのほうが
むしろ貴職でしょう。
いや、実際に
人が嫌がってやろうとしない事を
愛して行い、
結果、人がトイレを気持ち良く使えるのだから、
それは間違いなく貴職と断言します。
逆にそうした人たちの
稼ぎの上前を奪って
それで生活をしている政治家の方が
相対的に、
賤職に見えてきたりもします。
世の中、
上と下があべこべなんですよね。
人助けに関わる
医者や弁護士などについても、
確かにその本質は貴職でしょう。
しかし、
能力に対する対価の追求のみに
目が行ってしまうと
その途端、
賤職にひっくり返ってしまう。
仕事なんてものは、
本質的な部分では
どんな職業であろうと
その性質に大差はないのです。
ステータスにしたってそう。
その取り組み方、目的によって
貴賤どちらにでもなるものなのです。
では一体何が貴職で、
何が賤職なのか。
本当は、
人が一番幸せでいられる
社会構造というものは、
自分の好きな事や
自身の個性のみが持つ特性、能力を
生かした生業で
なんとなく生活出来、
それが許される社会なんですよね。
好きな事を仕事にするから
当然、モラルも高くなる。
好きでもない仕事を
まとまったお金がもらえるから
しかたがないと
嫌々やっている人の
仕事への向き合い方とは
雲泥の差が出てきます。
モラルが高まれば
当然、社会自体も良くなるわけです。
しかし、現実はそうはいかない。
誰もがしたい仕事を出来るわけではない。
誰もが自分の本当にしたい仕事を
見つけられるわけではない。
子供のうちから
大した挫折も知らず、
その辺りの折り合いの付け方を
教えられず、
実績を上げてステータスを得ろ。
そんな育てられ方をしてしまっては、
もっと厳しい社会に出て
はじかれた時、自信をなくして
社会との繋がりを断ち
引き蘢ってしまう人の心理も分かります。
混同されがちですが、
社会的ステータスと
仕事を愛せる事は全く違うものです。
いかなる社会的ステータスを持とうが、
そこで課せられる仕事を
どうしても愛せないのであれば、
本当は辞めてしまった方が良い。
いやいや仕事をする事で
社会のモラルが低下するし、
何より
本当にその仕事を愛して
従事したい人のために
そのポストを空けてあげるのが
理想のような気がします。
そんな事を言って
仕事を辞めてしまっても
生活出来ない、
そう考える人が多いでしょう。
そんな方にこそ問いたいです。
そうした社会的ステータスがないと
収入を生めないのですよね。
ステータスを取り払った
本来の自分を
何故これまで磨いてこなかったのか、と。
ステータスだけを頼りに生活をしている人が
嫌々ながらもそのポストに
しがみついている以上、
本当にその仕事を愛している人が
そのポストに就けず
あぶれている、
そんな状況が
社会から見えてはこないでしょうか。
何を生業にして良いのか
分からない人は、
とりあえず人のやりたがらない、
だけど誰かがそれをしなければ
円滑かつ快適な生活が送れない、
そんな仕事、
それこそ例えば
トイレを磨きながら
人生と向き合い模索したら良い。
なのにそれが出来ないのは
人が怠けるから。
楽をして利を得ようとする心があるから。
そして何より
今更、
現状の社会構造や
既存のヒエラルキーを変える事を
望まない人が沢山いるから。
だから
モラルを放棄して
適当な職に就いたり、
弱者を演じて
なんとなくお金をもらっている人と、
志はあるのに
社会というステージにすら
上げてもらえない人たち、
また一度訳あって
ステージから降りてしまったが故に
再びステージに上げてもらえない、
という両極的な人たちが生まれる。
これは社会として
果たして健全なのか。
そんなもの
理想論、精神論だという
批判の声もあるでしょう。
充分、分かります。
しかし、
こうした考えの対極にある
実利、実績、結果こそすべてと
作り上げてきた社会の
今の姿はこれなんですよ。
ステータスのみで迎え入れられた
なんの指導力も創造力もない
「ただ偉いだけ」の
高給取りが
世の中を動かしているのが
実情なんです。
確かに僕が述べてきた事は、
理想論や精神論なのかもしれないです。
事実、言っている事に
ほころびがある事も
認めます。
考え方が偏っている部分も
実際あるとは思います。
これ以上長くなるのも嫌なので、
深く言及していない事柄もあります。
だからこうして述べてきた事は
結果的に
論理として不完全になっていると
僕本人も感じています。
ただ、今の社会構造のままで
なんとなくやり過ごすのは
もう限界に来ている事は
どう楽観視しても
認識しておかなければならない
事実だと思うのです。
もっとも
超低所得の僕が言っても
説得力は全くないのも、
これまた
紛れもない事実なのですが・・・。