毒を盛る者

昨日、一昨日と
書いてきた記事で、
良からぬ存在は
99%の真実に1%の致命的な毒を潜ませ、
まるで自分が神であるかのように
近づいてそそのかしてくる。
しかし、本当に
「神」が居るのなら
それはきっと名前など持たない。
そんな話をしてきました。
僕は決して
現実至上主義の
徹底した無神論者という訳ではありません。
だいたい、
そんなポリシーをもつ人間に
音楽は創れません。
それどころか
音楽を創るという
行為の性質上、
もしかしたら
普通の人よりも
より多くの時間を
音楽という「神」に触れ、接する事に
費やしているかもしれません。
「神」や「信仰」の原点に
立ち返った時、
今、現状としてそれらは
果たして正しく捉えられているのだろうか、
ただ単に
その事を言いたかっただけなのです。
この世の中に数ある
神が残したとされる
知恵や問いかけ、
そうしたものの中の多くに
きっと誰もが言うように
実際、真理は込められているのでしょう。
ただそこに、
そのメッセージに、
「われは○○という神である」などと言う
「掴み」を混ぜ込んで
フィーチャーしてしまうから
真理は
「定義された神の語るもの」に
堕ちてしまう。
思うに、
99%の真実に1%の毒を盛る存在とは
「個」として存在する
悪魔だとか、良からぬ神だとか
そういったものでは
無いのだと考えます。
きっとその1%の毒を盛ったのは、
人の心。
富を得たいだとか、
ひとかどものになりたいだとか、
そうした人の欲が
毒となっているのでしょう。
人に良かれと思って
この世の真理から発せられた
メッセージを受け取った人が、
それを
そこからさらに
多くの人に伝えようとした時、
その心にふと沸き起こる
利己心や名誉欲という影が
純粋なメッセージに
毒を植え付けるのだと思うのです。
名前を持った「神」などいないと言うのなら、
また
名前を持った「悪魔」も存在しないのも然り。
「悪魔」が名前を持つ筈も無い。
何故なら
「悪魔」こそ自分の心の中の
影であり、また一部であるから。
そんな影を
自分の心に持ちたくないし、
その事実を認めたくないから、
「悪魔」という概念を持ってきて
そこに押し付けているだけなのです。
人がゴミ捨て場に
ゴミを捨て続けゴミの山が出来るように、
それはまるで本当に存在するかのように
実体を持ちはじめる。
もちろんそれは、
「悪魔」だけでなく
「神」にしろ同じ事。
外側の「神」に
戒律を求めるだけでは
いつまでたっても
信仰という呪縛から
逃れられないのと同じで、
外側の「悪魔」に
悪や闇を
丸投げにして押し付けていては、
いつまでたっても
人は心の闇による呪縛から
解き放たれる事は無いでしょう。
闇は誰の心にもあるもの。
自分自身たる心の中心は
常にそれを律し、
時にはその荒ぶる魂を
愛をもって包容し
なだめなければならない。
人はそうやって
意識的にしろ無意識にしろ、
心のバランスをとっていたりするものなのです。


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