神に名は無し

昨日は信仰、宗教の話をしましたが、
その概念の中核にある「神」のお話。
思うに、
「神」に個性を与えた時点で
それはすでに「神」では
ないのではないでしょうか。
何故なら受け取るその人の
精神性というフィルターを通ってきて
入ってきたものだけを
「神」と呼んでは
それはあまりに不完全すぎるからです。
「神」は見えません。
だから人は
その見えないもののディテールに
自分勝手に
ベタベタと名札やレッテルを貼って、
ともすれば
効能などというタグまで付けて
「神」の性質を限定してしまう。
つまり人、個人の概念に
型抜きされた
「神のようなもの」を
「神」と思っているのです。
そこに見えるそれは
もう完全に
「神」と似て非なるものとなってしまう。
天使だの、キリストだの、お釈迦様だの
その他いろいろ大勢の「神様」
その根本、本質は
確かに「神」なのかもしれません。
しかし名前がついてしまった時点で
「神」の世界から堕ちてしまう。
本当のところ
「愛」という概念でさえ
「愛」という言葉で表現してしまうと
その本質、真理を限定してしまう。
そもそも
信仰に偶像は要らないのです。
それは仏像や十字架といった
物質的な拠り所という観点ではなく、
心が信仰するものとしての
偶像の話。
そんな偶像だとか
勝手に人が想像した
神の概念、ディテールなどが存在するから
宗教は生まれ、
最初の純粋なメッセージは
歪められてしまう。
敢えて言いましょう。
名前を持った神のメッセージなど、
人の妄言であると。
目的が伝える事であるところに
名前は必要でしょうか。
信用するために必要なのか。
名刺を渡してくる
詐欺師だっています。
真実でありかつ、
一点の曇りも無く信じているのであれば、
いちいち名を求めるような事はしません。
名を求めると言う事は
それを疑っている事と同等です。
「神」に付けられる名前は
結局、人寄せの手段なのですよ。
そこには何かしらの理由で
限定して人を集めたいという
欲望が絡んでいることも
少なくありません。
そもそも考えてみれば、
結局この世という世界に
既に人は
ちゃんと集められているというのに、
そこからまた
集めようとする意識は、
不足を感じる渇望の顕われでしょう。
いろいろ述べてきましたが
僕の場合で喩えてみるならば、
こういうことです。
僕は音楽を創っています。
自分の曲が
必要な人に必要なタイミングで
伝わればそれで良いと思っています。
僕の音楽に縁の無い人には
結局、何らかの事情で
決して届く事はないと思っています。
僕の音楽を聴く事すら無いでしょう。
そこのところを理解しているから
僕が音楽を創るのは
別に名を売る気にはならない。
故に別に
「鮎沢郁弥」などという
名前などどうでもいい。
音楽=メッセージ
鮎沢郁弥=メッセージを発する人
目的=メッセージを伝える事
ならば音楽がそこにあればそれで良い。
この図式で完結してしまっている事に、
「鮎沢郁弥」という名前は
いちいち必要でしょうか。
早い話が
そういう事なのです。