信仰と隷属

世の中には
様々な信仰、宗教があるものです。
大規模なものから
ごくごく小さなものまで。
そして本当にたくさんの
考え方があるものです。
しかし、
より多くの迎合者を持つ思想が、
より多くの信者を持つ宗教が
必ずしも真実とは限りません。
むしろ、
そうした信者、迎合者を
集め、増やそうとするそれは、
僕の目から見れば
偽物に映ります。
このような
集めることで膨れようとする集団が
信仰する対象の
語る言葉には
心底、気をつけた方がいいでしょう。
先日、スピリチュアルに関わる
お話をした時、
ネットでちょっと
その分野について
いろいろ見てみた
という話をしましたが、
怪しいなと思えるものは
そこに書かれている言葉や
プロフィールなどから推察出来る
行動様式などに、
どこかしらの矛盾をはらんでいます。
酷いものになると
誘導する先に
掘ってある落とし穴を
堂々と隠しさえしないものもあります。
それがどんなものにしろ
大抵そうしたものは、
99%の真実に
1%の致命的な毒を盛って
近づいてきます。
だから本当に注意が必要なのです。
そもそも
何のために信仰と呼ばれるものが
あるのか原点に立ち返って
考えてみれば、
案外簡単に分かるものです。
信仰、宗教は
人を集めコントロールするものではない。
まして、
そうやって集まってきた人から
財産を奪うなど
もってのほか。
哲学も然り、
思想などというものは
人の生き方、精神性に
示唆を与えることはあれど、
干渉することはあってはならないのです。
簡単に喩えれば、
問題を解く人自身が
自分の力で正解に行き着くよう
やんわりヒントを与える事はあっても、
決して、
答えはこうです。
肝に命じておきなさい、
などという事はありえないのです。
これでは人のためにならないからです。
自分が成長するために
何が必要なのかを考えれば、
教唆する事と
示唆する事の
違いの意味が
自ずと分かってくると思うのです。
真に善き意思は、
受け取るものに干渉してしまう事を
嫌います。
干渉する事で依存を生んでは、
その真意から離れてしまうからです。
偽者は逆に依存させます。
依存させて、
物も金も、そして心までも
搾取して私腹を肥やします。
ここはもう、
自身の思慮と知恵をもって
自分で見抜かなければならない。
ただひとつ言える事は、
真の信仰、真実の宗教、
そうしたものがあるというのなら、
きっとそこには
人は集まってこないでしょう。
そして最終的に
それを信じる者は
自分ただ独りになるはずであると
考えるのです。
なぜなら、
信仰や宗教というものは
他者と共有されるべき体験ではなく、
あくまで
個人の体験だからです。


コメントを残す