明確なお断り

何か最近、
形而上的つまり、
形の見えないものだったり
ちょっと雲を掴むような理念のような
そんなものの話を記事にする事が
多かったこともあり、
それによって
変に誤解されるのも本意ではないので
改めてきちんとお断りしておきますが、
以前の記事でもちらっと触れた通り
僕自身、
精神世界とかスピリチュアルとか、
そうしたものに対して
非常に懐疑的な見方をしています。
何年か前にもありましたよね。
オーラの色がどうだとか
前世がどうだとか。
そんなものを知って
本当の意味で人生が豊かになるのか、
正直な話、当時から疑問に思っていました。
懐疑的な立場で物を言うからには、
僕自身の勝手な思い込み、固定観念に
頭から縛られて否としてしまうのは
アンフェアだと思ったので、
とりあえずネット上で知り得る範囲での
現在のそうした精神世界系の情報を
Googleの4ページ目くらいまでは
一通り目を通して、
そこからさらにリンクを辿ったりとかして
情報を仕入れて
個人的に精査して考えてみましたよ。
さすがに。
まあ確かに
有益でありまた真理であると
感心させられる考えも
実際にありました。
ただし!
望んだ事も
思い描いて信じれば
それが実現する的な思想だとか、
天からの啓示だとか、
こういうものは非常に危険だと感じました。
こうした事たちを
総じてスピリチュアルと言うのなら
はっきり言ってスピリチュアルは
「魔」です。
人生に於いて
人の努力の方向を見誤らせる怖れや、
自身の成長のために
乗り越えなければならない壁から
目を逸らさせてしまう可能性が
非常に高いのです。
そこが危険なのです。
アセンションとか言うのが
あるそうで、
人の生きる次元が上がって
世界が変わるとからしいのですが、
これまさに
末法思想や終末思想そのもので、
何かと不都合の多い人生に対する
リセット願望の
成れの果てと
言ってもいいかもしれません。
奇異なるものなど
知る必要はない。
むしろ幾万年と脈々と
存在し機能し続ける
物事の摂理にこそ
目を向けて、畏敬の念を
持つべきなのではないでしょうか。
願いを叶えたければ
実際にその為に必要な物事を
自ら行なって切磋琢磨する事が自然だし、
迷い多き人生の答えを
神様だの天使だのに求めるのではなく、
それこそ自分自身で
導き出してこそ
自分の人生が意味あるものになると思うのです。
そこには超自然的なものや
奇異なるものは一切ありません。
パワーストーンだの
パワースポットだの、
そうした
まじないめいたものに頼って
幸運が舞い込むほど
人生は甘くはありません。
人は本当に普通に人として
今この時を大切に生きればばいいのです。
その日すべき事を
慎みと敬いをもって愛して行ない、
時々、
今日という日が
昨日より良き日であれば
それは有り難くも
喜ぶべき事で、
そのような人生に
何が不足があるというのでしょう。
ついでに余ったら
人に分けてあげればいい。
今自分がツイていない事を
前世とやらに放り投げてはいけない。
神への帰依に
自身の利得を期待してはいけない。
正しいものの選別を
他者に頼ってはいけない。
本当に自分の人生を
愛していると言えるのなら、
その人生を人任せには出来ないはずです。
確かにある一定のレベルに於いては
それもまた真実だろうと
思える事も確かにあります。
しかし例えば、
この世には過去も未来も無い、
今というこの瞬間しか存在しない。
こうした考え方も
脆弱な精神性を抱えている人にとっては
毒でしょう。
時間軸の「今」という部分だけを
切り離して
それだけを見て全てだと言うのなら
それは誤りです。
なぜならそう考える事で
自分の成した事の結果を
受け止める責任を
放棄する事になりかねないし、
過去の失敗から
何が良き事であったかを学べないし、
何より悪くすれば、
刹那的な享楽に耽る誘惑に
堕ちてしまう危険性すらあるからです。
「未来」は自分を知るために必要だし、
「過去」は自分を省みるために必要です。
そして「今」は事を成すためにあるのです。
この三つをひっくるめて
認識されるものが
自分の世界だと思うのです。
また、
常に答えを自分の内側に求めろと
言われたところで、
人生に対する
理解の度合いによっては、
逆に
外的世界との繋がりを断ち
心を引き蘢らせてしまう
怖れがあるのですよね。
こうした世界には
本当に多くの「魔」が潜んでいると思います。
しかも悪いことに
人生に対する理解が一定の領域に達すると
それは足元をキラキラと横断する
川となって姿を現わし、
そこを渡って
越えていかないといけないから
また困ります。
その川面の下には
行く者の足を掴んで川の中に引きずり込む
魔物がたくさん棲んでいるのだから。
精神世界に精通していると
自称する人たちの多くのブログでは
こう語られています。
神の意志に則った生き方をしろだとか、
神とは愛であるとか。
言葉だけをとってみれば
間違いは無いのかもしれませんが、
どうも読み進めていく文面に
「書く者の様々な欲」が
透けて見えてきます。
耳ざわりの良い甘い言葉で
迷う人や、楽をしたい人を釣って
利を得ようとしている人が
実に多いです。
それこそ聖書に出てくる
「天使に渡された巻物を食べた。
腹には苦いが、口には甘い」
ですよ。
あまり意味というか
真意は知りませんが・・・。
今、求めているものは
幸福か、快楽か。
幸せなことと
気持ちの良いことは
似て非なるものどころか
その実像は真逆ですらあります。
向かう方向が全く逆です。
長々と述べてきましたが、
結局のところ
こうした精神世界、スピリチュアル
と言ったものは、
失礼な言い方になりますが
精神性が未熟な人が触れるには
あまりに依存と逃避を生みやすいのです。
かと言って僕の精神性が
とりわけ高いなどと奢るつもりは
毛頭ありませんが。
それにしたって、
何かと過ちを犯し
道を踏み外しやすい人に
おいそれとすすんで
刃物を持たせられますか?
真のスピリテュアリズムとは
外部に依存する事無く、
また帰依する事も無く、
まして妄信するなどもってのほか。
自身の精神性は
自身で真実を見つけ
自身で豊かにしていくしかないのです。
外側には何も無い。
何故ならその見える世界は
誰のものでもなく、
誰が作ったものでもなく、
あくまで自分自身のみのものなのだから。
自分自身の心が
見ている世界なのだから。
自分の人生、
まずは自分の力を
最大限まで振り絞って
良くしていく、
それが筋なはずです。
その結果として
自分の人生を
本当に愛せるようになれば
それでその人生は成功です。
僕の言っていることは
もしかして
何か間違っていますでしょうか。
やっぱり、
頭が変なところに行ってますでしょうか。
本当は
こう述べる
この記事ですら
鵜呑みにして欲しくないのです。
変に妙なところへ
誘導したくないし、
良からぬ思想に
依存させたり、傾倒させたくないので、
そういう怖れのある文言は
最大限、相当にカットしたり
言い方を変えたりしましたが、
それでもこんなに
文章が長くなってしまった・・・。