エデンの園と社会主義

『汚染されていない動植物の原種、
農作物、音楽と詩。
それ以外に
次の世代に伝える価値のあるものを
人間は造れなかった』
原文のままではありませんが
これは
漫画版の「風の谷のナウシカ」で
語られる台詞です。
この台詞、読んだ時に
凄く印象に残っていて
好きな言葉です。
お話からこの台詞が出てくる
紆余曲折は長くなるので語りませんが、
この台詞を語ったのは
科学文明の頂点を極め、
この世の森羅万象を
それどころか「神」さえも
自らの科学技術でコントロール出来ると
奢って自滅した人類の叡智の結晶でした。
一大文明の破局に際して
人類に有益なものを選んで残したら
結果的に
純粋な生命と、それらを生かす食べ物、
そして音楽と詩だけになってしまった、
そんな滅んでしまった文明の叡智が
後になって
どことなく後悔混じりに
述懐するような口ぶりで
語る台詞です。
なにより残すべきものに
「科学技術」が含まれないのも
重要なポイントでしょう。
こうした思想もまた真理かなとは思います。
人類すべてが
大地からの恵みを食して
音楽と文学を謳歌する世界。
誰ひとり我欲で
自然の恵みを
独り占めし
溜め込もうとせず、
皆に等しく与えられ、
食べるに困らず、
美しい言葉や音楽を発して
それを日がな愛でる生き方と
それが出来る世界。
言ってみればエデンの園ですよね。
アダムとイヴ、
つまり人類はエデンから追い出されました。
善悪の木の実を食べて
常に「有る(在る)」という
一元的に満たされていた世界から、
「有る」と「無い」という
二元性の世界に堕ちたからです。
確かに二元性は
自我の発露の特性なのかも知れませんし、
「ものの有無」の判断がつくことは
叡智を進歩させる力の
原初でもあります。
しかしその叡智が
人類を裏切り牙をむいた時、
この世界にすら
人類は生きられなくなってしまう
危険性と隣り合わせである事も
意識しておくべきでしょう。
それは二元性を極めた
代償と言ってもいいかもしれません。
もの凄く
左的な考え方なのかも知れませんが、
富は平等に与えられ
愛ある幸福を指針とした生き方は
非常に「人類という存在」にとって
有益に思えるのですが、
そうしたある種、
社会主義的世界観で
皆が生きようとしても、
規律ある精神性がなければ
堕落してしまうものなんですよね。
それ故に上述の漫画では、
人類にとって
次の世代に伝える価値のあるものとして
生命とそれを維持する食料以外に
音楽と詩、
つまり精神性が残されたのでしょう。
社会主義の概念は
非常に進んだ概念だとは思います。
しかしながら
現在の人類の精神性をして
扱うには手に余るのでしょう。
社会主義を上手に扱えるほど
人の精神は成熟していないという事です。
具体的に言えば
懸命に働いても、
一日中ごろごろ寝転がっていても
身入りは同じなわけですから
懸命に働く事は馬鹿げてきます。
どう過ごそうとも
皆が持つ富が同等ならば
その物質的な価値観は解体します。
そうすると
現状の経済的な生産性は機能しなくなり、
結局貧しくなってしまうという
堕落の悪循環に
人は堕ちてしまうものなのです。
かつての社会主義国も
はじめは先進的で高尚な志の元に
勃興したのでしょうが、
結局はその思想も
人類には上手く扱えず
人民は貧困になり
崩壊していきました。
社会主義というエデンの園で
アダムとイヴは
着る服も無いのに
そこを楽園だと信じているといった
ブラックジョークもあるくらいです。
物質的、それは経済的にと
言い換えても良いですが、
その価値観が瓦解して
人は果たしてなお
慎み深く高尚な志を持ち得ることができるか。
物質的価値観が崩れた時、
人はその問題を試される事でしょう。
物質的な富という価値観の代わりに
置き換わる価値観、
それが何なのかは分かりません。
いろいろな示唆が提示されてはいますが、
未だに人はその別な何かしらの価値観に
コミットする勇気すらないのが
現状ではないかと思います。
人類はエデンの園に
帰る事は出来るのでしょうか。
いや、
そもそも帰るべきなのでしょうか。
それともやはり、現状の
有限で物質的二元性の世界で
生まれ死んでゆく以外に
道はないのでしょうか。