恋について

「恋」の話でもしましょうか。
悲しい考え方かもしれませんが、
「恋」は破れるものなのですよね。
もっとも「恋」の終着点を
どこに規定するかによっても
変わってくる事ですが、
実際好きな人が出来たとして、
その人とお付き合いする事が出来たら
ゴールとするならば、
人生の中で何度も
「恋」は成功したと言えるかもしれません。
しかし、
お付き合いをはじめても
その後、離別してしまえば
結局その「恋」は報われたものとは
言えないでしょう。
では
結婚を「恋」のゴールと見なした場合は
どうでしょう。
その観点から察するに、
大抵の人はその一生の中で
せいぜい1回だけ実るもの。
多い人でも2回、3回、
どんなに話を盛ったとしても
さすがに4回と言えば
常識的な限度を超えるのではないでしょうか。
この定義において
「恋」が報われる可能性は
著しく低くなります。
それどころか
一生のうち
一度も「恋」を実らせられなかった人も
少なくはないのも事実です。
それに結婚したからと言って
将来、離婚してしまえば
やはりそれは
成功例とはなり得ないですし、
さらに言えば
法的に婚姻関係にあったとしても
両者の気持ちの間の
溝がまったく埋まらないほど
完全に距離が
離れてしまっていたとすれば
どうでしょう。
そう考えていくと
「恋」というものが
いかに儚く壊れやすく、
変質しやすく、
そして貴重なものであるか
理解できると思います。
まして、
この先の人生で同じ人と
変わらない関係を結び続け、
愛し愛されるような想いなど
幻に等しいものと言わずを得ません。
確かに「恋」がもたらす
メンタルなインパクトは
強烈で鮮烈です。
ひとたび魅了されれば
どうしても手に入れたくなるし、
ともすれば
手に入って当然であると
錯覚する事さえあるでしょう。
人格や人生が大きく変わってしまう
人すらいるほどです。
しかしながら
当たり前の事ですが、
「恋」は
自分ひとりで出来るものではありません。
自分の気持ちと
相手の気持ちが
絶妙のタイミング、シチュエーションで
合致しないと成立しないものなのです。
それ故に
望む、望まざるに拘らず
「恋」はめったに報われない。
むしろ報われるのは
ある種の奇跡ですらあると思います。
しかも、
一度叶ったかと思える時期があっても、
自分の気持ち、相手の気持ち
そしてシチュエーションが変わると
途端にバランスを崩して
解体しやすくなりますし、
実際、時や気持ちの潮目で
「恋」は壊れます。
それほどに「恋」という奇跡を
持続させ、育てるのは難しいうえに、
さらに
渇望、執着、嫉妬などといった「情念」が
「恋」の育つのを阻みます。
『人の一生の中で経験する
そのほとんどの恋は破れる。』

恐らくそれが「恋」の真理なのでしょう。
しかしそれを、
諦念に打ちひしがれつつ
是認し受け入れるのも
また違うような気がします。
特に今その「恋」を
パートナーシップの中で育てている人たちにこそ
自覚して欲しいのです。
それだけ
壊れやすく儚いものを
ふたりで育てているのだという事を。
ただでさえ「叶い難い恋」を
二人で共有して育てるという
尊くも希有な体験を
今しているのだと
強く認識して、
大切に扱ってください。
そしてその「恋」を
見事に「愛」に昇華させる事を
終着点にして欲しいものです。
また、
「恋」のあまりの脆さに絶望して
心を閉ざしかけている人には
こう言いたいです。
恋い焦がれて眠れず
寝床でのたうちまわる事を
恥と思うな、むしろ誇りに思えと。
恋い慕う感触を知らない人間など
そんなもの
プラスティックの人形です。
そのようなものに比べれば、
人を想う事が出来る
それだけで充分「生きた人」です。
人は愛してこそ人たり得るものです。
結末はどうであれ
「愛した」という確かな体験を出来た事に
胸を張るべきです。
「恋」によって受けた傷は
傷ではありません。
ひとりの人を心底愛せたという
証しとなる勲章です。
だから
「恋する」ことを
諦めないでください。
止めないでください。
はるか昔から
幾千万、幾億人の
「恋」に破れて倒れ、
散っていった者たちのためにも・・・。