スローライフ考

スローライフという言葉があります。
かれこれ10年以上前くらいには
この言葉があったような気がしますが、
基本的には「新語」の部類に
かろうじて入るのではないでしょうか。

個人的な解釈としては、
大量生産、大量消費の価値観を改めて、
可能な限り、オーガニックで
身の丈に合わせてゆったりと過ごす、
そういう生活様式のことを言うのだと
理解しています。

僕自身の人生は、きっとおそらく
スローライフと意図しないまでも、
こちらの方向へ、梶を切ろうとしているような気がします。

正直、
少なくとも
物質的な上昇志向というものは
もうすでに僕の感性からは無いです。
いや、正確に言うなら、
そういう世界があるのは知っているけれど、
僕からすればそこは地獄だ。

ともあれ、
スローライフというのは
エコでゆったりした生活を
自分に、あるいは人に課すことであると
定義してしまうと、
少しスローライフの本質を
歪めてしまう危険性はあるのかなとも思うのです。

結局、何が「スロー」なのかと問えば、
スローライフというのは
別段、スローなわけではないと思われます。

おそらく、スローライフの
コンセプト、テーゼというのは、
「自然のサイクル、リズム」に
調和することである、と再確認するなら、
「スロー」になるというよりは、
本来の自然の摂理と「シンクロ」する生活様式を
取り戻すと言った方が、
意味合い的に近いのかもしれません。

もっと簡単に言えば、
「がっつかない」
それだけでスローライフの基底は完成する、
そういうことのような気がします。

と同時に、
他人と自分を比べず、
自分のありのままを「然り」とする
世界観も必要になってくるかもしれません。

ただ、間違えてはいけないのは
「堕落」と同義としての「ゆとり」ではないのだ
ということ。

自然と調和するということは、
時に不便を克服する必要もある。
けれど、それは
個々人の克服であって、
人類にとっての征服ではない、
ということをきちんと理解できた上での
スローライフであることが重要ですし、
ここを履き違え、間違うと、
結局また、
(スローライフの対義としての)
ファストライフに戻っていってしまうでしょう。

故に、スローライフを謳って
とってつけたかのように
無農薬野菜を食べたり、
自動車の代わりに自転車に乗ったりしたところで、
スローライフというステレオタイプを
表面的に実践するだけでは、
ファストライフの価値観と
さして変わりはないのだと思うのです。

『何が自然と無理なく共生することなのか』
それがスローライフの問いかけであるのなら、
それは同時に
『誰が』自然と無理なく共生することを問うのか、
という話にもなってくるのです。

そこを考える上で、
「本当に自分が求める生き方」を知る必要があるし、
それを知るのなら、
もしかすると、スローなそれより、
現代人のほとんどの人が
半ば機械的に過ごしている生活様式の方が
身に合っていると気づくこともあるかもしれない。

いずれにしろ、
現代社会に埋もれるように過ごす現代人が
それを知るには
あまりに「煩悩」が多すぎて
なかなかに難しいことでもあるのでしょう。

「お前は何者だ?」
「なぜここにいる?」
「何がしたい?」
「お前は、何を知っている?」
『そして、お前の役目は?』

こうした問いと常に向き合うことなしには、
「スローライフの理想であるところ」のスローライフは
結局、いっときのファッションで終わり、
飽きればまた、ファストライフの方へ
帰ってしまうのでしょう。

というより、もともと
現代人にとってのスローライフとは
ファストライフの疲れを癒すための
「足湯」のようなものなのかもしれません。