美しいゴミ屑

40歳も半ばになって、
それでも売れない音楽をやり続けていると、
時には嘲笑されたり、卑下されたり、
そういう場面に遭遇することだってあります。
石ころや、負け犬のような
目で見られることだってあります。

若いうちは、同じような夢を追う者同士で
共通の方向を向いて、
皆でエネルギーを一点に集めて
物事を動かすことだってできます。

けれど、ある一定の年齢を過ぎると
一人また一人と
「まっとうな人生」を歩み始めます。
と同時に、
目の冷めた人間と、
まだ夢を見ている人間とでは
話がどんどん、合わなくなっていきます。

これが人の世の真実。

まして、一定の信念を持って
表現し続けるということは、
歳をとるほどに、他人から見れば
それが人となりとなり、
関わり合いを避けられることだってあるのです。

そういう人は凄いね!と
うわべでは言えども、
実際に、そういう人とは
関わり合いたくないのでしょう。

音楽に限ったことではないのでしょうが、
何かを表現するということは、
そして、それを信念として
貫けば貫くほど、
人は自分から離れていくのです。

まあ、それは何が悪いわけでもなく、
きっと生き方の違いがあるだけであって、
皆がそれぞれの「生きるフィールド」を
皆でシェアしながら生きている中にあって、
何かを表現し続けるということは
誰も足を踏み入れたことのない領域に
没入していくことなのだ、
ということなのだと思うのです。

未知のものを表現するということは、
既知の世界観に
そのアイデンティティの拠り所を
求める人からすれば、
それは奇異であり、
時にはグロテスクにも見えるのかもしれません。

僕自身、結局のところ、
自分の音楽は売れないということを
思い知ってもなお、
貫きたい世界があるわけで、
こういう状況にあるのなら、
残りの音楽人生、
自分の美学だけを突っ切っていっても
いいように思えるのです。

僕がこのブログで書いている内容というのも、
実際のところ、
合わない人からすれば
「気持ち悪いブログだなあ」と
思われたりもすることは承知しています。
もっとも、ネットの場合、
そもそも嫌な人は読まないだけですし。

けれど、ここが大切なところだと思っています。

誰も読まなくても、
自分の表現したいことを書き続けるように、
同じく、音楽だってそうする。
けれど、たとえ
ほとんどの人に素通りされても、
それでも想いを叫び続けられるほどに
強い信念を年老いても持ち続けられるなんて、
よほどに難しいことなのだと。

いつか、
僕がこの世を去って、
誰もが
「こいつ、ゴミ屑しか残していかなかったぜ」
と嗤っても、
僕一人、自分だけは
「こんなに美しいゴミ屑なんてこの世にありはしない」
と、真顔で堂々と言えるものを
残したいのです。

というか、
その一点のみのために
この人生を貫く、
と言ってもいい。

僕自身、かれこれ10年近く、
こういうブログ記事を書いてきていますが、
そろそろ、それらのことを
自分の音楽に乗せて歌ってもいい時期に
来ている気がします。

おそらく、
僕のブログ記事のような内容のことを
自分の音楽に統合させた時、
僕の本当に表現したい「それ」が
実現するのではないかと思っています。

日を追うごとに
蔑まれる存在になったとしても、
ここには
「ゴミ屑」と嗤われる
最高に美しい作品を残したいのです。