時代の作られ方

「時代」というものは
過去から未来へ流れていく時間の連なりの
ある一定の期間のことを言います。

昨日、こういうことがあって、
今日はこうだった。
そして明日はああなる。

そういう刻一刻、一瞬一瞬の
膨大な積み重ねの産物が
「時代」であると。

しかし、
「歴史は繰り返す」だとか
「時代に逆行」した、
という物言いがあることからもわかるように、
こと人の営みに限っては
全てがそうした一方向的な形で
時代が形成されていくものとは
限らないかもしれません。

結局のところ、
「時代」というものは
「生きた人の精神」の活動の蓄積なのであって、
外的、あるいは社会的な事象というものは
想定外の天変地異や事故でもない限り、
「同じ精神活動」をすれば
同じような結果になるものです。

そして、その「精神活動」というものは
外的、社会的な要因からの影響より、
むしろ血族的、あるいは家庭的な部分からの
影響の方が大きいのだろうと思えます。

例えば、
基本的に温厚で親切だった民族が
戦争の絶えない国になって
荒んだ心を持つ民族になってしまった、
ということが実際にあります。
それは、戦争で傷つき、荒んだままの人が
荒んだ社会のまま、荒んだ家庭を作るからで、
それによって、いつまでも争いの絶えない社会が
存続し続けることによって、
そういう「戦争の時代」が形作られていくのです。

故に「時代」が
人の「ドメスティックな側面」から顕れる
精神活動の蓄積として形成されるものであるのなら、
いわば「家庭の在りよう」こそが
「時代」を構築するための重要な素地になりうるし、
また、ここがとても大切な部分なのですが、
『時代の姿は家庭の姿』
でもあるのだと思います。

簡単に言うなら、
『家庭が荒むから時代が荒む』
のです。
荒む原因、要因は内にも外にも
様々にあるのでしょうが、
そうした、社会的様相の
もっとも基軸には
「家庭」があって、
その家庭の質が社会の質に直結していると言っても
過言ではないのだと言うこと。

もっと簡単に言うなら、
『賢く、優しい子を育てないから世の中が悪くなる』
のですが、
ここで冒頭の「時代の流れ」が意味を持つことになります。

前述の
「一方向的な時間の蓄積としての時代」の流れからの影響の
要因を作る事象、現象は
ドメスティックな時代の流れ、
つまり、
親から子へ、そして孫へと
家庭の中での世代を通して受け継がれる
「世代の流れ」の影響を受けるのではないか、
と言うこと。

例えば、
未成年に平気でタバコを吸わせる家庭があったとします。
親も、未成年の子供がタバコを吸っていても
それを絶対にやめさせるよう咎めもしません。
こうして、未成年の喫煙者が野放しに育ち、
学校などで同級生、それに近しい年下、あるいは年上の友人に
喫煙を広めてしまうのです。
そうやって、近隣の人間関係に喫煙習慣を浸透させ、
そして、そうして育った子供が
大人になり、子供ができて、
やがてその子供が
未成年にもかかわらずタバコを吸うようになっても、
かつての自分の親と同様の対応しかできなかったりする。
こうして悪しき習慣は、
「自分の家庭の世代のサイクル」から
「他人の家庭の世代のサイクル」へと
伝播して広がり連綿と受け継がれていくのです。

もちろん、これは喫煙だけの話ではありません。

暴力もそう。
ギャンブルもそう。
いじめもそう。
差別もそう。
不倫もそう。
強欲もそう。
減らず口もそう。
嘘つきもそう。
怠惰もそう。
無関心だってそう。

人の為すことの全ては
「ドメスティック(家庭、世代)な時間軸」
によって受け継がれ、
「ソーシャル(社会的)な時間軸」
で拡散するのです。

これが「時代」

時代が繰り返すのは、
「同種の業を引き継いだ人間」が
生涯を通したライフサイクルの
同じ時期に、同じようなことをするからなのです。

ただ、今の高度な情報社会においては、
「歴史は繰り返す」などと言うような
悠長なサイクルで
ソーシャルな時間に拡散はしません。
それこそ「誰かの業」は
たった一夜のうちに全世界を駆け巡るのです。
そうやって業は拡散して、
全く別のドメスティックな時間の中へ
侵入していくのです。

そして気づけば、
世の中に「悪しき業」で
満ち満ちてしまった。

極力、ドメスティックな時間軸の中で
留めることが出来たなら、
悪行や悪癖も、「かつての過ち」と
忘れ去られることも可能だったろうに。

本来、この世界というものは
「悪事ばかりを承継して流布させるため」に
あったわけではないと思うのです。

良きものをそうするためにこそ
世界はあったはずではなかったのかと思うのです。