「老い」や「病」はどこから見るのか?

「病むこと」と「老いること」
この二つのことは、
人にとってきっと、
死へとつながる恐怖を伴う元として
忌避したくなるものであり、
それ故に
克服すべきものとして、
人類にとっての永遠の課題として
古来より存在するものなのでしょう。

そして、とりわけ
この「死の恐怖」をもたらす
病気や老いというものに
抗ってきたのが医療です。

もちろん医療というものを
否定するつもりは毛頭ないですし、
僕自身、
命を救われたこともあるくらいに
たいへん、お医者さんのお世話になっています。

そういう立場にありながら、
それでも思うこととして、
やはり医療というものは
大きい意味で、
『自然の摂理を乱す行為』
であることは否定できないと思うのです。

人間に限らず、
この世界の生きとし生けるものというのは、
やがては「老い」、
そして「病に蝕まれて」死んでいくのです。
自然が産み育て、存在する一切のあらゆるものは、
その理から逃れることはできないのです。
この摂理のサイクルの流れを
『故意に停滞させるのが医療』であると
言えるのではないでしょうか。

ある別の観点から見れば、この世界は
『老いること、あるいは病むことを選択できない世界』
とも言えるかもしれません。

それは、
弱り、衰え、そして死んでいくという
生きる存在であるのなら
誰しもが体験する理を
棚上げにして考えさせない世界であることを
意味するのだと思います。

健康で活力に満ちた生と
衰弱して朽ちていく生を
別個に切り離されたものとして捉えるようになれば、
そこにはますます、
老いや病、そして死は
忌避のものとして
人の精神世界の闇へと追いやられていくのでしょう。

そう考えると、
人の生において医療というものは、
およそ人の生を健全たらしめるものたちの
「半分の部分」にしかアプローチできない
質のものなのかもしれません。

繰り返すように、
別に医療の不完全さを説いているわけではありません。
むしろ、「医療を施す」という面においては
その時代の技術や叡智なりに
基本的には「常に完全」であるのだと思うのです。

不完全なのはいつであっても
「医療を受ける側」の立場の人なのではないかということ。

医学や薬学が発達すれば、
それだけ多くの人が「健康な肉体」でいられるのです。
それでも多くの人が
衰え、病気になり、そしてその
行き着く先に感じる
死の匂いに恐れおののくのです。
たとえそれが
自然の摂理に逆らう感情であるにしろ。

故に、
その「死の匂い」を想起させる不完全さを
補い、癒されたいと
真剣に願う人にこそ
医療を受ける資格があるのかもしれません。

そして、そういう逆行する心に呼応するように
医療もまた、その摂理に抗わざるを得ないのかもしれません。

もっとも、
自然の摂理自体が本来持ち合わせている
自浄作用や、恒常性が
人の世界において、
どこに顕現され、現象化するのかという観点で見れば、
医療やその行為自体がそれに相当するのだろうし、
そうなれば、
ここまで述べてきた言説全てが
反転されるべきであるという示唆も見えてきます。

そうなってくると、
そもそも「誰が誰を癒すのか」という
哲学の領域に踏み込んでいく話になるのですが、
ここで、この部分を切り分けて
相容れない、あるいは無関係の
別の視座にある物事として
認識してはならないのだとも思えます。

なぜなら、
医療を施す立場の人たちが、
様々な知識や技術、そしてツールを網羅して
老いや病に対峙するのに対して、
逆の立場である、それを施される人にとっては、
上述のような哲学に由来、近接する領域の内側から、
あらゆる問答を伴って
老いや病に対峙しているからです。

こうして、
苦しむ人と、それを癒す人という関係性は
ある種の構造を持った
一つの「現象」となって
老いて、死に、朽ち果てていく
逃れられない宿命に抵抗しているのです。

そしてこの現象が人の社会の中で
ありふれた普遍性を伴って浸透し、
命の営みが純然とした自然のサイクルから
逸脱し始めると、
その、人による世界の構造は歪み始め、
やがては、もっともマクロな世界にまで
歪みが波及していく危険性も無くはありません。

ならば、
治療、医療は不要なのか。
自然は、命を生かすことも「歪み」と断ずるのか。
いや、病み、老いていく人の命を救う行為そのものも
また「自然の営み」の中に
組み込まれているとも言えるではないか。
けれど、死にゆくものは
このまま死にゆく運命にあるのかもしれない。

無為に他人の死に干渉し
その人の「死の完成」を妨げる行為なのではないか。
それとは逆に、
他人の死に干渉し、命を救うことによって
その人の「生の完成」を完遂する助けとなるということも、
等価なものとして解釈することはできる。

死なすべき病なのか。
あるいは、生かすべき老いなのか。

この堂々巡りに等しい
ジレンマに回答できる人間はいないでしょう。
しかし、この問いに
正解を導き出すことのできる
人類でなければならないのだろうと思うのです。