自己完結的幸福論

今、自分が居る
まさにその時、その場所に
幸福や喜びを意識して作ることは、
抽象的には大切なことだと分かっていても、
おそらく、実際問題それを実践するとなると
それはなかなか難しいものであるし、
幸福を構築していくことの重要さも
なかば精神論や、認識のトリックに過ぎないと
思ってしまう方が、
楽で良いとさえ思えるかもしれません。

自分の内奥で欲するものを
意図して表現し、振舞うことによって
自らの外的世界に
「一定の形」として
その表現や振る舞いの結果をを出力する。

いわば、
自分という創造主の意図を
結果という形にして
供物として受け取り、
それを捧げるかのような行為を、
よくよく観察し、熟考する時、
人は無意識のうちにやっていることに
気づくかもしれません。

それだけに、
幸福や喜びなどの感覚を
今この瞬間、この場所に
表現し、出力することは大切なことなのです。

喩えるなら、自分が
「あらゆるものを生み出せる神様」だとして、
そして、自分の生み出したそれらは
「自分のもの」だとして、
「毒を生み出し続けること」は
それすなわち、
自らを傷つけることと等価のことであるのです。

周りを見渡せば、
そこにそれらを見出し、認識するのは
あくまでも自分なのであるから、
そこに目に入るものは
自分の世界の中のものであるとも言えます。

自分が喜ぶ時、
世界には喜びしかないし、
また、悲しめば、
この世には悲しみしかなくなる。

元を正して単純に考えれば、
それは至極当然のことであって、
そういう意味では、
自己というものは
「閉じた永遠」であるのでしょう。

毒に窒息しそうな毎日がそこにあるのなら、
きっと、その毒は
常日頃から自分が創出しているのです。
自分という創造主に、
自分が育てた毒の実を
供えているようなものなのでしょう。

どうせなら、
喜びの果実を実らせたいし、
また、それを自分の供物ともしたい。

けれど、喜びの果実は
自らが意図しなければ育ちません。
毒入りの果実もまた同様に。
そして、そうした自分の実らせた果実は
自分以外に食べる人などいないのです。

そう考えると、
今この瞬間の自分が
何人なる人として存在するべきかが
見えてくるかもしれません。

そして、
根本から毒されないためにも、と
そう考え始めると、
意図して「幸福な現実」を
自ら創出すること、
つまりは毒されていない果実を育てることが
いかに難しいことかと
理解できるのだろうと思います。