神殿の守り人

結局のところ、
人が持つ「攻撃的な感情や感性」というものは、
すべからく、その人が内的に持ち合わせている
恐れや、怯えの裏返しなのだろうと思えます。

人が何かに怒る時、
本当は、その何かに怯えているのです。

なぜ怖いのか?

それはおそらく、
人の精神の内奥の
純粋性が犯され、汚されるからでしょう。

純然たる内的世界が、
自分の同種とは非なるところの
異様たる外的世界のものに
侵食され、蹂躙されていくことの恐怖なのでしょう。

そして、それを恐怖であると
知覚できるのであれば、
言い換えるならそれは、
それだけ、
不可侵の真理の何たるやを
知っていることでもあるのでしょう。
そして、その不可侵である領域というものは、
可能な限り守り抜くべき領域であるのだとも思えます。

その死守すべき領域こそ、
本来の自分であるのだから。
そこは聖域であり、また神殿なのです。

人は無意識のうちに、
この神殿を守るために
「自我」という壁を作って
外的な異質なるものの侵入を防ぎます。

あらゆる異質なるものからの
侵入を防ぐには、
自我は、そのあらゆる異質なるものを
知らなければなりません。

故に、
人はこの世に生を受けて
聖域の外へと旅を始めたのかもしれません。

その旅の中で
苦悩し、哀しみ、そして怒りを知っていきます。
そして、
自らの聖域を、より明確に認識している人ほどに、
その苦悩たちは深く、重くなるのです。
なぜなら、
その領域を認識するほどに、
自身はその領域の中心に存在することを
思い知るから。

思い知るほどに、
中心は、より中心に存在し始め、
外的な苦悩もまた、
そこを目指して入ってくる。

怒りというものは、
これを退けるための防衛的な心理なのかもしれません。

神殿の中心に近いほどに、
怒りは高潔となり、
ともすれば世界を転覆させるほどの
威力を持っているように思えます。

誰しも、
自分の中心には
聖域があり、そのまた中央には
神殿が建っているのです。

未だその神殿への蹂躙を許すことなく
生きているのだとしたら、
あるいは、
そこは自分の聖域であると、
悪しき異形を追い出し、駆逐することができるのなら、
今すぐにでも怒り、
そして己の聖域と神殿の清浄を守り抜くべきです。
いつか生も尽き果てくたばるその最後まで。

やがて恐れは癒され、
いつしか、その恐れていたはずの
悪しき異形すら受け入れて
聖域の住人と認める時が
やってくるかもしれません。

おそらく、その時が
旅の終わりなのでしょう。

聖域や神殿を汚さぬまま、
あるいは、汚したそれらを洗い清め、
そして、その旅の終わりに
きっと良い事があるはずです。

もしかしたら、きっと。