生命樹

経験や体験というものは、
樹木に例えるなら、
あくまで
『心という幹から分かれた枝の一本』に
過ぎないと思います。

刻々と分かれ伸びていく枝の先へ先へと
心の重心を置くから不安定になるし、
時には抑圧された心が引力となって、
脆い枝先から
振り落とされるようなこともあるかもしれません。

枝先に自分がいるのではなく、
常に自分の所在は
幹にあると言えるでのでしょう。

人の本質は
「心という幹」と「経験という枝」を合わせた
一本の樹木として捉えた方が、
よりその本質に近いのです。

間違っても枝から幹が生えないように、
経験(枝)は心(幹)から生まれるものなのです。

人は悲しいかな往往にして、
その枝ぶりの立派さだけを見て
自他ともにその人生を評価しがちです。

それは、
経験によって生まれた心象から、
心を作ってしまうことと同義のことで、
本当はその逆であり、
実際は『心が経験を作っている』のです。

人はその人生において、
常に枝先、枝先へと進んで行きます。

なぜならそこは、
枝には花も咲くし、実も成るし、
鳥や虫たちも訪れてくれる、
賑やかな場所だから。

けれど、それだけを追い求めて
枝先へと進んでいくことは、
それだけ不安定で脆い場所へ
身を置くことでもあるのでしょう。

けれども、しかすると、
人の生というもの自体が元々、
木の枝の先に置かれているものに
過ぎないのかもしれません。

遠く幹から離れて生まれたのは、
「自分自身たる樹木の姿」を知るため。

幹へ、幹へと辿っていくと、
自分自身たる幹は、
さらに自分自身を超えたものの
枝の一本に過ぎないことに
気づくのかもしれません。

延々と、幹へ、幹へ。

そう、そうやって辿る後ろには
枝先を求めるよりずっと多くの枝が
自分のうちにあることを
知ることができるのです。