自由も強いられると不自由だな!

今の時代って、
自分が本来の自分でいられる自由というものを
尊重することが結構叫ばれるようになって、
例えば、
『ポリティカル・コレクトネス』といって
様々な立場、思考の人や集団に対して
偏見や不快感を与えないようにする
気遣いのようなものに
神経質になっていたりもしたりとか。

自分が本来の自分のあるがままで存在できること、
おそらくこれって、「個人という人類」の
究極の夢だったりするとは思います。

人はありのままでいて是となることが
尊厳の究極であり、理想であることは
それを追い求めるものとして、
至極真っ当なものであることはよくわかります。

僕も、かくあるべきと考えます。

けれど、これはいろいろな意味で
「自由」とは違う。
人が純存在を守り抜くということは
自由さによって勝ち得、
実現できるものではないことを
理解しておく必要もあるのではないかと思うのです。

人が自分の尊厳を主張するために、
その自由を訴えたとします。
その自由を縛るものは
監視したり、規制したり、排除したり、
そうして克服しつつ
自分の純存在の尊厳を得られる場を
確保、獲得していくものなのでしょうが、
その自由というのは裏を返せば
逆の立場の人たちにとっての
不自由であることもあるのです。

要するに、自由というものも
強いられれば、それは不自由だということ。

では、不自由とはどこから来るのか。

人の営みの中で、
水や食料などの
生命維持のための必要なところの、
肉体的な生きる尊厳は別として、
よりよく生きる人間存在を享受するための
自由さ、あるいは不自由さというものは
大抵の場合は人との関わり合いの中で
生ずるものです。

人との関わり合いが、自分の純存在に
制限を与えているのでから、
人との関わり合いの集合でもある社会が
自由であることを喧伝することは
そもそもが矛盾の孕むことであるのです。

「みんな、自由でいようぜ!」
「いや、そうやって同調を強いることが不自由だから」
ということ。

故に、
本当に自分をあるがままの純粋な存在として
自分の存在を全うする時、
そこには常に孤独がある。

誰にもとやかく言われない状況というのは
究極的には孤独な状況でないと生じないのだから。
そして、さらに考えれば、
仮に、絶対的な孤独の中にあって
果たして、自分は本当に
純粋な自分を体現する必要性が
あるのだろうかという問いに突き当たることでしょう。

絶対的自由は絶対的孤独と同義であり、
そこには自分自身の全肯定と全否定の
表裏一体があるのみ。
人はこの究極の二律背反に耐えられるだろうか。

人が望む自由というのは結局のところ、
人工的に造られた自然であるところの
ビオトープみたいなもので、
人為的に線引きされ、定義づけられ、程よく管理された
そんな都合の良い、
「見かけ上の自由」を不自由の中に作り出して
満足するくらいが心地いいのかもしれません。

ただ、その作られた自由は
本来の意味での自由を突き詰めると
どこかで論理的に無理の出てくる自由でもあるのです。

自由は誰のためのものか。
みんなのためのものであるなら、
それは虚像だ。
自分のためのものであるなら、
その無限に広がる自身の内的空間で
ポツンとたった一人、
宇宙の中の一点のシミとなって
存在するより仕方がないのです。

上述したように、
人は、人との関わり合いの中で
およそ不自由を作っているのだろうけれど、
そもそも、自分が考えるところの
自分が自由に表現したい
「理想の自分」なんてものは
そんな不自由の苗床から生じた
幻想、影だったりもするのでしょう。

結局、みんなで
優しく縛られあっこしていた方が
案外幸せでいられるのかもしれない。

と、社会性皆無の僕がなんとなく説いてみる。